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立川の山車彫刻
文政10年、亀崎中切組の招きにより信州上諏訪の立川和四郎富昌(二代目和四郎)が亀崎を訪れて以来、常蔵昌敬・和四郎富重(三代目和四郎)らの手により、知多の山車に多くの立川流の山車彫刻が飾られるようになりました。
これは、従来の彩色された山車や彫刻から白木の山車へと知多の山車が一変する要因となり、その後立川流彫刻の影響を強く受けた初代彫常(新美常次郎)によって知多全域に広まる事になるのです。
ここでは、和四郎をはじめ立川流の山車彫刻の作品を紹介します。
少しでも大きな画像をご覧いただけるように、今回は主題となる彫刻の抜粋や部分拡大をしています。また、ファイルサイズの節減やデザイン上の都合で背景の消し込み処理をしました。各山車彫刻の全体画像など詳細は「知多の山車祭り写真館」をご覧下さい。
今後、順次作品を追加予定です。ご期待下さい
立川和四郎富昌(二代目和四郎) 天明2年(1782)~安政3年(1856)
天明2年、初代立川和四郎富棟の長男として生まれる。父から受け継いだ立川流彫刻を、『幕末の左甚五郎』と異名される天才的な才能と美術感覚で彫刻を芸術として開花させた。
文政、天保年間と2度にわたり半田に滞在し、各組の山車彫刻を制作している。
主な作品:「亀崎・力神車」、「同・花王車」など
立川常蔵昌敬 享和2年(1802)~文久3年(1863)
二代和四郎富昌の弟子。本名を宮坂恒四郎といい、富昌の甥で娘婿でもある。富昌と共に半田に逗留し力神車など共同で制作にあたっているほか、単独での作品も多い。
主な作品:「亀崎・神楽車」、「下半田・唐子車」など
立川和四郎富重(三代目和四郎) 文化12年(1815)~明治6年(1873)
二代和四郎富昌の長男で立川流を継承。弟の専四郎富種や音四郎種清と共に、知多の山車彫刻を手がける。
主な作品:「乙川・源氏車」、「旧下半田・護王車(現布土・護王車)」
中野甚右衛門重富 文化9年(1812)~没年不明
上野間(知多郡美浜町)に生まれ、二代目和四郎富昌の弟子となり、立川流彫刻を学ぶ。
知多半島南部の美浜町、南知多町や武豊町に数多くの作品を残す。
立川(岸幕)角三郎
横松(現阿久比町)の堂宮大工岸幕家の一族で、乙川に住んだ。二代目和四郎富昌の弟子となり、阿久比町宮津、大古根の山車を手がける。
また、音吉(立川音四郎種清)とともに、乙川宮本車を手がけた。
半田市
成岩地区
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南組南車

檀箱
「馬獅王と龍(羅真仙人)」
立川和四郎富昌 文政年間
